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元「大河」俳優や元「紅白」歌手も… 「過去の栄光」がうみだした“闇” 日本で唯一「死刑判決」を受けた俳優とは【戦後犯罪史】

世間を騒がせた事件・事故の歴史

 

■日本でただ一人、「死刑判決」を受けた芸能人とは?

 

 1964年1221日、正午ごろ宮城県仙台市の会社経営者Sさん宅に電話がかかってきた。電話の主はSさんの三男・裕之ちゃん(仮名)が通うキリスト教系幼稚園の関係者を名乗った。当時、すでに幼稚園は冬休みに入っていた。

 

「きょう、マドレー神父が帰国するため記念写真を撮りたい。すぐに園庭に来てほしい」

 

 電話に応対したSさんの会社の事務員は特に怪しむことなく、その旨を5歳の裕之ちゃんに伝えた。裕之ちゃんはひとりでSさん宅の目と鼻の先にある幼稚園に向かって家を出た。当時は子供の数が多く、防犯意識も今より低かったため、5歳児を単独で外出させることは珍しいことではなかった。

 

■あまりに短絡的すぎる犯行

 

 通常、記念写真の撮影は数時間もかからない。しかし、裕之ちゃんは夕方になっても家に戻らなかった。心配した家族が幼稚園に問い合わせると、“マドレー神父”なる人物は存在せず、記念撮影の予定もなかったことがわかった。

 

 では、あの電話は何だったのか? 家族が警察に連絡すると、間もなく「裕之ちゃんを誘拐した」と主張する男から身代金500万円を要求する脅迫電話がかかってきた。

 

 身代金の受け渡し現場に犯人はあっさりと姿を現し、待機していた警察官にすぐに逮捕された。しかし、人質の裕之ちゃんは戻ってこなかった。犯人は幼稚園に向かう途中の裕之ちゃんを誘拐し、自動車であちこち連れ回した。その過程で、泣き叫び続ける裕之ちゃんが煩わしくなり、無慈悲に絞殺。遺体を自宅の物置に隠していた。

 

 家族が脅迫電話を受けた時点で、裕之ちゃんの小さな命はすでに絶たれていたのだ。

 

■映画俳優が転落するまで

 

 この「仙台幼児誘拐殺人事件」の犯人は、当時29歳のKという元俳優だった。仙台で生まれたKは、父親を早くに亡くし、結核を患って学校を1年間休学するなど、決して恵まれた環境で育ったわけではなかった。

 

 そんなKには「映画俳優になりたい」という夢があった。その夢を実現するために単身で上京し、日本舞踊の修行を経て、21歳の頃に「天津七三郎」の芸名で新東宝の専属俳優となる(以下、便宜上「天津」)。

 

 天津はその時点で逆境を跳ねのけ夢の扉を開いた若者だった。最も古い出演作は19579月公開の『幽霊沼の黄金』で、翌年3月公開の大作『天皇・皇后と日清戦争』にも出演している。そんな人物が、なぜ誘拐殺人犯になってしまったのだろうか?

 

 映画俳優にもピンからキリまである。天津は期待の若手スターとして主演級で売り出されたわけではなく、端役を演じることがほとんどだった。しかし、俳優としての格に見合わない多額の出費をしていたため、自分の収入では賄いきれず母親からの援助に頼っていた。新東宝の経営難もあり、天津は1960年に松竹に移籍するも、俳優として大きくランクアップすることはなかった。

 

 さらに、母親のほうでも事実婚関係の相手が借財を残して逃げてしまったため、経済的に困窮し、別途に借金をして我が子に金を送るようになっていた。この悪循環が長く続くわけもなく、天津は19629月公開、のちに第16回カンヌ国際映画祭で審査員特別賞を受賞した『切腹』を最後に俳優業を断念し、母親のもとで借金整理に奔走せざるを得なくなったのだった。

 

 仙台に戻った天津は、友人に相談して水産物の販売や貿易の事業を起こすもことごとく失敗し、新たに不動産の仕事を始めていた。資産家であるSさんとは19645月ごろ不動産業のつながりで知り合い、金銭援助を求めたが断られていた経緯がある。

 

 一方で、同じ頃に知り合った女性と同棲を始め、12月に婚姻届を提出。女性は出産を控えていた。もうすぐ父親になる立場にあった天津の借金は400万円に膨れ上がり、取り立てはどんどん厳しくなっていた。そこで悪魔の計画を企てたのだった。

 

■「吉展ちゃん事件」で誘拐の厳罰化が進み、死刑判決へ

 

仙台高等裁判所

 つい数年前まで映画に出演していた天津の背中を押したのは、19633月に東京都台東区で発生した「吉展ちゃん誘拐殺人事件」だとされる。天津が犯行を思い立った時点で、この事件の犯人は身代金を奪ったまま逃走していたのである。

 

 1965年4月の一審で天津には無期懲役の判決が下されたが、これを不服として検察側が控訴した。二審までの間に、前述の「吉展ちゃん誘拐殺人事件」の犯人・小原保が逮捕され、自供により人質の吉展ちゃんは誘拐された夜に殺害されていたことが明らかになる。

 

「仙台幼児誘拐殺人事件」の二審、仙台高等裁判所は一審を覆し、死刑判決を言い渡した。一方、小原の裁判は迅速に進み、極刑が確定したのは196710月のことである。「吉展ちゃん誘拐殺人事件」により誘拐罪の厳罰化が進んだことがいわれるが、「仙台幼児誘拐殺人事件」の裁判もその影響を受けた可能性が高い。そして1968年、天津の死刑も確定する。

 

 克美しげる、西川和孝、そして天津七三郎。彼らが引き起こした重大犯罪の背景には、芸能界での成功や注目を浴びた経験が、その後の人生における困難や挫折を一層際立たせた印象もある。

 

 なお、俳優・天津七三郎が出演した映画は、ほとんどが低予算のB級作品であり、現在は鑑賞が困難なものばかりである。しかし、『天皇皇后と日清戦争』や『切腹』など一部の作品はDVDまたは動画配信サービスで観ることができる。

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過去記事

ミゾロギ・ダイスケ 

昭和文化研究家、ライター、編集者。スタジオ・ソラリス代表。スポーツ誌編集者を経て独立。出版物、Web媒体の企画、編集、原稿執筆を行う。著書に『未解決事件の戦後史』(双葉社)。

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